【明治維新150周年】西郷隆盛のルーツは(熊本)菊池一族だった!

Saigo_Takamori

今年(2018年)は、明治維新からちょうど150周年の年を迎え、
NHK大河ドラマでも「西郷どん」がスタートするなど
西郷隆盛の話題で持ちきりですね!

西郷さんといえば、薩摩藩ということで、
鹿児島県ばかりが連想されがちですが、
実は西郷隆盛は、熊本県にも深いつながりがあるんです。

明治維新の立役者「西郷どん」

西郷隆盛が生まれたのは、文政一0(1827)年。亡くなったのが明治一0(1877)年だから、ちょうど五十年の生涯だった。彼は謎の多い人物で、自殺を四回も試みている。

若い頃の西郷はお庭番として主君の島津斉彬にかわいがれ、農政で鹿児島を富ませる建白書を提出するなど、その才能を認められていた。江戸幕府を倒し、明治維新の実現まで世の中を引っ張っていった。勝海舟と会談し、江戸城を無血開城したことは、あまりにも有名だ。

明治維新の功労として西郷は天皇から正三位の位を授けられた。岩倉具視も、西郷の主君の島津忠義も縦三位だったことを考えると、破格の待遇である。公務員の月給が七円の時代に西郷は四00円の月給をもらっていた。大久保利通はちなみに三00円。

西郷は、明治二年に職を辞し、いったん鹿児島に帰り、私学を開く。しかし、再び明治四年に政府に呼び戻され、廃藩置県を断行し、大久保や岩倉が外遊している間に政務をあずかった。学制、徴兵令を出したのも西郷の功績であるが、明治六年、政府内の征韓論に破れ、辞職して鹿児島へ帰っていった。その後、政府の実権をにぎったのが大久保利通。西郷と幼な馴染みで、肝胆相照らす仲だった大久保と敵味方に別れて戦うことになるとは、皮肉な結末であった。

引用:kumanago.jp

snapcrab_noname_2016-5-2_11-39-32_no-00

菊池源吾(西郷隆盛)物語

西郷隆盛の変名。安政の大獄で西郷隆盛は、勤皇僧である月照と共に、鹿児島の錦江湾に身を投じたが蘇生した。
鹿児島の島津藩27代斉興の裁量により、幕府に対しては死亡したとの報告を行い、「菊池源吾」と変名して、奄美大島の龍郷町に潜住を命じられた。
1859(安政6)年1月11日に鹿児島山川港を出帆し、12日に龍郷町の阿丹崎に到着した。

大島の名門郷土格龍家の離れ家に居住しながら、同年11月8日、龍佐民夫妻の媒酌により龍家二男家の子孫「愛加那」と結婚した。この時菊池源吾32歳、愛加那22歳であった。

1861(文久元)年1月に長男菊次郎、翌年には長女菊草(のちの菊子)が誕生した。
龍郷町時代の3年余り「菊池源吾」と名のり、子供達に“菊”の字を付けたことは、自分が「菊池一族」の後裔であることを意識してのことであったといわれる。
1862年(文久2)年1月14日に召喚状を受け、龍郷町から鹿児島へ帰る。
なお、菊次郎は1904(明治37)年10月から1911(明治44)年5月まで京都市長を2期務めた。また菊草は大山巌元帥の弟 精之助に嫁いだ。
西郷家は菊池氏初代則隆の子である政隆が、七城町西郷地区に居を構え、西郷太郎と称したことから始まる。
西郷家26代の昌隆(九兵衛)が、元禄時代に鹿児島の島津氏に仕え、鹿児島に居住。
この子孫が西郷隆盛となり、初代西郷家から32代目にあたる。

引用:kikuchikanko.ne.jp

109

hontai_0603_2

西南戦争では、先祖発祥の地でもある熊本で明治政府と戦うことになりますが、皮肉なものですよね。。
記念碑は、道の駅「七城メロンドーム」の近くなので、メロン・季節のお野菜・お米・お土産などお買い物のついでに、すこし足を延ばしてみてはいかがですか。